■君に伝えたい言葉
君に伝えたい…────── それは、ケントにとって初めての感情だった。 が運んできたコーヒから立ち上る湯気が香ばしく芳醇な香りで鼻腔をくすぐる。 レポートに掛かりきりのケントを気遣って、あまり会話はないが、同じ空間にがいると思うだけでどこか気持ちが安らいだ。 そんな風に感じる自分がいた事にもケントは自分のことながらに驚いた。 PCから少し顔を上げれば彼女がソファに座る姿が見える。 ただそれだけだというのに。 実際に進めなければいけないレポート作成は過去最悪の進行状況だ。 結局エンジンが掛かるのはを見送ってからになるのだから、なんとも非効率この上ない。 しかもお互い別々の事をして会話もない。 ケントがどれだけ満足していても、もしかしたらには苦痛なんじゃないかとも考えた。 彼女は不平不満を口にするタイプではない。 本当に嫌だったり、迷惑だと思っているならきっと何かしら相談してくれるだろう。 でも、ケントを気遣って万が一にもが我慢していたならいけないと、それとなく訊いてみた事がある。 「私はケントさんと一緒に居られればそれだけで嬉しいです。あ、でも、私が居たら落ち着かないとか集中できないとか、もし、ケントさんのお邪魔になるようでしたら暫く会うの控えますが…」 「い、いや!いい…その…邪魔ななんて事はない。…寧ろ、君の都合さえ良ければ居てくれて構わない…」 「はい!ありがとうございます」 女性の扱いに長けた悪友ならばこんな言い方にはならないだろうと脳裏に過るのが苦々しい。 答えを導く数式があればどれだけ楽だろう。 彼女はなんでもないことのように コーヒーを飲み下し、微かな苦味を残す香りで気持ちを落ち着ける。 必要なことをソツなくこなす事は容易いが、イレギュラーや前例事項のないものにケントはとんと弱い。 PCに向かうのもポーズにしかなっていない状態で、もはや、ケントの頭はの事でいっぱいになっていた。 そして、小さく嘆息すると、徐に席を立った。 残り一口程しかないコーヒーの入ったマグカップを手に、の居るソファへと歩を進める。 「ケントさん…どうかされましたか?あ、コーヒーのおかわりお持ちしましょうか?」 「いや、いい…それより、隣に座ってもいいだろうか?」 「え、えぇ…それは別に…でも、良いんですか?」 作業の手を止めるケントを心配しているようだったが、ケントは苦笑しながら首を横に振った。 「心配ない。私も少し息抜きをしたいと思っただけだ」 「そうですか…あ、でもコーヒー残り少ないみたいですし、休憩されるならやっぱり淹れ直してきますね」 置いたマグカップに手を掛け用としたのてを掴み、ケントはそっとを制した。 「いや、今はいい。ありがとう…君には色々と気を遣わせてしまっているな」 「そんなことないです」 「できるなら…今は君とこうして……君を近くに感じていたいと思うのだがいいだろうか?」 掴まれた手はそのままケントの大きな両の手に包まれていた。 慈しむように優しく触れる。 壊してしまわないように、怯えさせてしまわないように、と。 「…はい、嬉しいです」 「そうか……」 の笑顔で自然とケントの顔も綻びを見せた。 「やはりこうしていると落ち着くな。その…もっと近付いても?」 「えっ!?あ…はい…」 僅かに空いていた二人の隙間さえ惜しくなって、ケントは一度腰を浮かせると、にピタリとくっつくように座り直した。 微かに触れた箇所から伝わる柔らかい感触と、仄かに香る彼女だけの甘い香りがした。 距離を詰めた分だけは恥ずかしそうに耳まで赤くして俯いてしまい、今度は顔が見えなくなってしまった。 「此方を向いてはくれないのか?」 「あ、あの、そういう訳じゃ…なんか、急に近くにケントさんがいると思うと恥ずかしくて…」 「こっちを向いて欲しいのだが…ダメか?」 ケントはもう一度に懇願した。 少しだけ、恥ずかしがるを楽しむようにその言葉にも笑みが含まれている。 そして、そっと伸ばした手での小さな顎先を掬い上げると思わず目尻を下げた。 「誰かと共にいて安らぐのも、距離を縮めたいと思うのも君が初めてだ。君は本当にたくさんの初めてを私にくれる。どれもこれも愛おしい…」 「ケントさん……」 「だが、一番愛おしいのは何度考えても君しかいないようだ…」 親指でうやうやしくの唇をなぞると、吐息が掛かる程まで顔を近付けた。 互いの瞳に映り込む自分の姿が分かる距離で、ケントはそっと囁いた。 「君にもう少し近付いてもいいだろうか?」 が微かに頷くのを見るより先に、唇を塞いだ。 誰よりもただ一つの答えを欲する筈のケントが、答えなど必要ないと言わんばかりに。 ■戻る |