■華麗なる大円舞曲
それは今思い返せばそれは、まさしく────── 『邂逅』だった────── その日の『おは朝』によるところ、今日の蟹座の運勢は1位を告げていた。 ラッキーアイテムは楽譜。心躍るような一日になることでしょう、と。 幸いなことに、幼い頃からピアノを習っていた緑間には楽譜は身近なもので、自室の本棚にいくつもの譜面集が常備されている。 おは朝のラッキーアイテムは、日によっては調達するのが難解なアイテムもある為、こういう日はとても有り難い。 そして、運勢も上々とくれば文句なしだ。 緑間が取り出した譜面集はショパン。 何となく…というよりは、好んで弾くことが多いからだ。 バスケに集中しだしてからは昔ほど誰かに師事して熱心にレッスンを積む事はないが、今でも自宅にあるグランドピアノはきちんと調律をしてメンテナンスをしているし、休日に息抜きがてら気ままに弾くこともある。 最近になって増えた新しいものもあるが、緑間が手にしたのは昔から使っている馴染みの物だった。 いつもは風変わりなアイテムを持っていると好奇の目に晒されたり、ヒソヒソと話し声がついて回るが、こういう割と持っていても不思議ではないものは何事もなく至って平和だ。 元々人からどう思われようが、陰口を言われようが全く頓着しない性格の緑間だから、普段よりも静かな気がする程度のこと。 逆に、緑間が何を持って来ようと煩い輩はいるもので、 「うっわー、何ソレ楽譜?今日のラッキーアイテム超フツーじゃん。何か効き目薄いんじゃね?」 「黙れ、高尾。それに、今日の蟹座の運勢は1位。アイテムは補強に過ぎないが、それすらもカバーする事で人事を尽くしている今日の俺は誰より強いのだよ」 「あー、ハイハイ。まぁ、持ち運びが楽そうなやつで良かったじゃん」 高尾の軽口はふんと鼻先で一蹴し、それ以外では至って平和な一日が始まった。 昼食を早々に切り上げた緑間は一人、音楽室へと足を運んでいた。 折角譜面集を持ち出したのだ、気晴らしに1、2曲弾くのも悪くないと。 だが、既に先客が居たようで、廊下の奥まった先にある音楽室へと近付くと、ピアノの音色が漂ってきた。 「…ショパン…ショパン ピアノ協奏曲第1番か……」 先客が居たならば引き返せば良かった。 特に是が非でも弾きたかったわけではないのだから。 けれど、流れるような音の渦に引き寄せられるように緑間は音楽室の扉に手を掛けた。 音の中心部へと気付かれないよう注意しつつ歩を進める。 と、ピアノを奏でる一人の少女がいた。 彼女が履いている上履きの色を見たところ、どうやら同じ1年生らしいことが見て取れた。 演奏に集中しているのだろう。彼女のすぐ後ろまで近付いていた緑間にも全く気付く気配がない。 ピアノに関しても覚えのある緑間から見ても彼女の演奏は素晴らしいものだった。 つい、近寄って、聴き入ってしまう程に。 「…凄いな」 「───っ!?」 曲が終わると緑間は自然と呟いていた。 だが、まさかそんなところに人が居たなんて思いもしなかった彼女は驚きのあまり悲鳴すら飲み込んだ。 「す、すまない!驚かせるつもりでは…なかったのだよ。邪魔をした」 「…ぇ…ま、待って!」 彼女の動揺に釣られて緑間もしどろもどろになっていた。 元より人とのコミュニケーション能力は決して高くはない。 それを自覚もしているというのに、見ず知らずの女性に対して気安く声を掛けてしまった事に罪悪感にも似た後悔を感じていた。 けれど、足早に立ち去ろうとした緑間を呼び止めたのは彼女だった。 「待って。気付けなくってごめんなさい。あなたも、ピアノ弾くんでしょう?」 「いや、構わないのだよ。俺は偶々立ち寄っただけで、気晴らしというか、息抜きのようなもので……」 上手く説明できない。が、本当にそれ以上でもそれ以下でもない陳腐な理由で立ち寄ったのだ。 彼女はきっと大きなコンクールを目指すような練習をしていたに違いないと思えば、このまま彼女に弾いて貰うのが一番だ。 そもそもここの利用は生徒なら誰でも自由に利用できて、早い者勝ちなのだから。 「ショパン…ね、あなたのも聴いてみたいんだけど、ダメ?」 「は?」 「さっきはあなたが私の演奏を聴いたんでしょ?だから今度は私が聴く番ってこと!」 さあと言わんばかりに彼女はスっと立ち上がり、緑間に椅子を勧めた。 にっこりと微笑む彼女は真っ直ぐに緑間を見つめた。 その視線に嘆息するも、遂には折れた。 椅子に腰掛け高さを調整すると、静かに楽譜集を彼女に差し出した。 「何かリクエストは?」 「え?いいの?」 「俺が邪魔した事に変わりはないからな。これでチャラにしてやるのだよ」 初対面だというのに緑間の上からな物言いにも臆することなく彼女は楽譜集を受取り、ペラペラと捲っていく。 「…んっと…じゃあ……これ。これが聴きたい」 緑間は、開けて差し出されたページをそのまま譜面台へと置いた。 ワルツ 第1番 変ホ長調 『華麗なる大円舞曲』────── 割とポピュラーな選曲に少しホッとした。 フッと小さく息吐くと、緑間は鍵盤に両手を添えた。 そして、弾き、奏でられる軽快な調べ────── 5分程で最後の音を刻み終えると、パチパチと静かな拍手が送られた。 「すごーいっ!!緑間くんってこんなに弾けたんだね。バスケだけやってるの勿体無いよ~」 「そんな事はない。君の方がずっと…ん?確か名乗ってはいなかった筈だが…俺の事知ってたのか?」 「うん。ほら、ウチってバスケ部が強くて有名じゃない?だから部員の人って有名っていうか、それがなくても緑間くんの場合はインパクト強いから多分学年で知らない人の方が少ないと思うよ」 そう言ってクスクスと笑う彼女の笑顔が妙に気恥ずかしくなり、そっと目を逸した。 自分の事を知られていたとか、バスケ部だとか、そういう事でもないのだが… 言い表しようのないモヤモヤを払うように緑間は一つ咳払いをした。 「ま、まぁいい。…それで、そっちは?俺だけ一方的に素性が知られているというのは不公平なのだよ」 「素性って程詳しくは知らないけど…そうね、私は。趣味はピアノ。クラスは違うけど、緑間くんと同じ1年生。部活は入ってないから帰宅部ってことで…どこにでもいる女子高生よ」 ちょっと前まであんな演奏していたクセにどこが『どこにでもいる』もんかと文句を言ってやりたかったが、噤んだ口が中々開かないでいた。 「やっぱ、バスケ選手だけあって手大きい…指も長いね」 途端には緑間の右手を取り、自分の左手とぴたりと合わせてみせた。 小さな手だ。 それは、緑間からすれば大概の人間は手が小さい。それが女子ならば尚の事。 けれど、その小さな手から伝わる感触が思いの外柔らかくて、暖かくて、緑間はドギマギした。 こんな状況、慣れるどころか知りもしない。 対処法なんてそれこそ思い浮かぶ筈もなく、何か話をしなければとても心臓が持たなかった緑間は、全力で思考回路を振り絞るように働かせた。 「…ショパンの協奏曲に優しい曲はないが、それでもあれだけ弾けるんだ、ならその内克服できるだろう」 「私ね、あの曲好きなんだけど、どうしても同音連弾が苦手で…運指の問題もあるんだろうけど、聴き専なんだよね。でも、生で聴いたのは久し振りだし、あんな上手いなんて思わなかったから凄いサプライズだよ!本当にありがとね」 何故かは少し表情を曇らせ、俯いた。 「…そう言って貰えるとホント、嬉しい」 もう一度「ありがとう」と告げた。 「ねぇ、緑間くん」 「なんだ?そろそろ昼休みが終わ…っ!?──────」 早く片付けて戻ろうと言おうとしたが、離れかけたの手がキュッと緑間の右手に再度触れた。 今度はそっと触れ合うのではなく、細い指にキュッと掴まれていた。 「明日も…一緒に弾ける?」 思いっきり上を仰ぐが大きな瞳で訴えてきた。 緑間はどうにか平静を装うように左手でメガネをクッと押しやると、こくりと頷いてみせた。 「構わないのだよ。だが、俺はのように練習してるわけじゃないから…その…完成度は劣ると思うが、それでもいいのか?」 「ホント!!ありがとうっ!…って、私も練習してるわけじゃないんだけどね。暇潰しみたいなもんだよ」 「そうだったのか?俺はてっきりコンクールでも控えているものだと思ったのだよ」 「うん、違うの。それより…私ね、緑間くんともっと色んな曲弾きたい…けど、そうだなぁ~折角だからさ、さっきのワルツ 第1番 変ホ長調を私に教えて?」 「っな!?無理なのだよ。…言っただろ、俺に完成度を求めるなと。人に教えられる様な技術は無いのだよ」 「え~…そんなことないのに」 「無理なものは無理なのだよ」 一向に譲ろうとしない緑間にう~んと唸りながら思案するは、閃いたとばかりに緑間の腕に抱きついた。 「そうだ!全部じゃなくていいから同音連弾の部分を教えて?それならいいでしょ?」 「おい、!いいから…は、離れるのだよっ!!」 抱きつかれた部分にはの胸から伝わる何とも形容し難い柔らかな感触が緑間を翻弄させた。 「だって、私なら弾けるようになるって言ったの緑間くんだよ?ちゃんと責任取ってよね」 「わかった!分かったから……同音連弾の部分だけなのだよ…」 「うん!」 あまりにも嬉しそうにが微笑むから、緑間も釣られて普段は中々動きを見せない口角も自然と弧を描いた。 そして、他意もなく左手をの頭にポンと乗せると、小さな頭を2、3度撫でていた。 ■戻る |