■月の雫【前編】






────── ウソツキ……



そう呟いたの頬を一筋の涙が零れた。
どうしてその言葉が出てきたのかも、どうして泣いているのかも分からない。ただ、夜空に輝く月をふと眺めただけ。
悲しいのか、悔しいのか、嬉しいのか…それすらも分からない涙をそっと拭い、再び頭上に輝く月を仰ぎ見た。
淡く、白く荘厳な光を放つ遥か彼方の星を。










本丸へ帰城した三日月宗近は凝った肩をグルグルと回しながら自室へ入ると、後ろを付いてきたにチラと妖艶な眼差しを向ける。

「あと一息、といったところだな。少々手こずりはしたが、片付きそうで何よりだ。なぁ…?」
「うん…そうだね。お疲れ様」
「その沈んだ顔は宜しくないな。どうした?ん?」

あっという間に手を取られ、抱き寄せられるとの躰は三日月の広い胸の中にすっぽりと収まった。
綺麗な顔がを見下ろす。甘くとろけてしまいそうな視線に、はいつまで経っても慣れることを知らず顔を赤くした。

「なんでもない……大丈夫だから」
「そうは見えんから訊いたんだが?」
「そんなことより、防具取るでしょ?ほら、手伝うよ」

はそっと三日月を押しのけると、慌てて繕った笑顔で三日月を見上げた。

「ん?ああ、すまんな。では、頼むとするか」

何かを察してか、三日月はそれ以上詮索しようとはせず、ぽんとの頭を軽く撫でるにとどめた。
刀を下ろした三日月はの前に立つと徐に両手を広げ、一つ一つ外されていく防具がなくなるのをじっと待った。
他の刀剣男子たちは殆どが自身で身支度を整える中、三日月だけは必ず誰かの手を要した。
そう複雑な防具や装飾でもないというのに、も含め三日月に笑顔で頼まれると「甘えるな」と文句は言っても最後には誰も断れなかった。
それでも、彼の着替えを手伝うのはが一番多かった。
近侍に迎えてから共に過ごす時間が増えたことが大きいが、それ以上にも三日月の傍に居たかったのだ。
今のように本丸で生活を共にする時間は限られている。
いつかは終わりが来ると知っているし、また、早く終わらさなければならない使命だということも重々承知していた。
けれど、近くに居ればいるほどは願わずにいられなかった。






────── ずっと…一緒にいれたらいいのに……






叶うことのない願い。
付喪神である彼らが今の人の姿のままこれからも生き続けることはない。
一時的な仮の姿でしかないと頭では分かっていてもは考えたくなかった。
防具を外し、身軽になった三日月はふうと一息つくと大きな躰をころんと畳に横たえた。

「三日月…もぅ、行儀悪いよ」
「良いではないか。ここは俺の部屋だしな。それよりも、…」

にっこりと微笑みポンポンと催促するように畳を軽く叩く三日月の仕草に、何をせがまれているのかすぐに察したは溜息を漏らした。
促されるようにゆっくりと三日月の頭のすぐそばに腰を下ろすと、嬉しそうに瞳を細めた三日月が迷いなくの膝に頭を乗せた。

「うむ、極楽、極楽♪」
「まったく、ほんと甘えたがりなんだから」
「そうツンツンするな。俺が甘えたいと思うのはだけだぞ」

伸ばされた三日月の大きく骨ばった手がの頬をするりと撫でた。
そんな優しい顔で、声で言われたら何も考えられなくなった。この人がそう言うならきっとそうなんだ、と無条件で受け入れられた。
なんて浅はかで単純で、どうしようもなく愛おしいのだろう…と。

「…好きだよ、三日月」
「そうか。俺と一緒だな。だが……ちと物足りぬ」
「ぇ…ちょっ…?!」

むくりと躰を起こした三日月は口許に悪戯な笑みをたたえると、の腕を引き寄せそのまま自分の上に跨らせるようにして引き倒した。
馬乗り状態にさせられたは恥ずかしさのあまり言葉も出ない。慌てて退けようとするが、それは呆気なく三日月に遮られてしまう。

「こら、人の腹の上で暴れるな」
「だったら下して!」
「ん~?却下だ。こんないい眺めそうそう拝めないからな」
「…ばか……」
「そうだな。とこうしていられるならそれも悪くない。俺はいくらでもバカになれそうだ」

はははと微笑う三日月に、は顔をくしゃりと歪ませた。
咄嗟にそんな顔を隠すように三日月の胸元に顔を埋め、ゆっくりと深呼吸する。
焚き込めた香の幽かな香りにも三日月を感じる。
匂い、体温、声…こんなにもはっきりと彼を感じる。こんなにも……無情にも等しく感じるほどに。

「三日月…」
「ん?どうした?」

呼べば応える。此処に彼がいると感じさせてくれる。

「抱き締めて?…私のこと、離さないで。…お願い……」
「言われずとも…と、言いたいところだが……──────」

含みを持たせた物言いに不安になったは顔を上げ、楽し気な笑みを浮かべた三日月と対峙した。

「折角の逢瀬だ。俺のことも下の名で呼んでくれ。その方が恋仲らしくてよいだろ?なんと言ったかな…そう!『らぶらぶ』というやつだ」
「ラ、ラブ…ラブって……」

嬉々として語る三日月には項垂れた。
一体どこで覚えてくるのか…というか、誰に吹き込まれてくるのか知らないが、好奇心旺盛な三日月は現代語に興味津々で、中でも横文字が大層気に入っているらしい。
彼いわく、新しい言葉を覚えてはに聞かせたくて仕方ないのだと言う。
割と本気で泣きそうなくらい目の奥が熱くなっていたは一気に冷めていった。
けれど、三日月のこういう人の気持ちを知ってか知らずかマイペースなところはやっぱり好きで、ふっと心を軽くしてくれる。

「…宗近…すき…」

呼び慣れない名はそれだけでを気恥ずかしくさせる。
一方、呼ばれた三日月はというと満足気に笑みを深くしてうやうやしくの唇を指でなぞった。

「ああ…思った以上だ。なぁ、もう一度呼んでくれないか?」
「宗近…」
「もう一回」
「宗近」
「もう二回」
「宗近。宗近…」
「もう三回」
「なんで増えてくのよ。もう、いいでしょ…」

面白がっているだけになってきた三日月に付き合うのもここまでと、は白檀の香る首筋に甘えるように擦り寄った。
やれやれと聞こえてきそうな背中を撫でる大きな手の感触に聞こえないふりをする。
野暮なことは言いっこなし。温もりだけで満たされていく。
そして、その頃になれば三日月だってその気になってくることもは知っていた。

「…

名を呼ぶ声は熱っぽく、それまでとは違う声音がの耳元をくすぐる。
こういう時の三日月の声はちょっと狡いとすら思えた。
それに輪をかけての熱を煽るように滑る手つきに逆らえるはずもなく、また、その必要もなかった。
交わす視線の先に見える三日月の双眼。その中で輝く彼だけの月に引き寄せられるようには近付いていく。
吐息のかかる至近距離まできても見つめ続けるに苦笑したのは三日月だった。

「この月ものものだ。逃げたりせんよ」
「うん…ありがとう…」

の不安を悟っての言葉かは定かではない。それでも三日月のくれる言葉には安堵し、漸く瞼を閉じると唇に柔らかな感触が重ねられた。




* E N D *


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