■蜂蜜色の声



休み時間に廊下に出て決まった場所で友達とおしゃべりするのはの日課になっていた。 昨日見たTVの話や出たばかりの雑誌の話。 は未だ年齢イコール)彼氏いない歴を更新中だったが、他の子の恋愛話も聞いているだけでそれなりに楽しんでいた。 ほんの10分足らずの短い談笑でも話し足りないくらい濃密な時間になる。 休み時間も終が近づきそろそろ教室へ戻ろうと誰かが言い出せば、自然とお開きの流れになり、も皆の後に続いて歩き出した。 ふと、の視界にチラつくゴミが見えた。 視力の弱いはメガネが手放せない。 午後の授業が始まる前にメガネを拭こうかと立ち止まり徐に外した時だった。 肩にドンとぶつかる衝撃と共に思わず持っていたメガネを離してしまい、落ちていくそれを拾おうとした瞬間──────






───カシャン……───






「…あ゛っ!やっべ…悪い、っ!!」

にぶつかった相手の後ろを歩いていた別の人の足が見事にメガネを踏みつけてしまった。 レンズも割れ、フレームもグチャグチャに歪んでしまった成れの果てはまさに元メガネだった物というほかなく、視力の弱いはガックリと肩を落とした。

、ホントごめんっ!!大丈夫…じゃねーよな……」
「えっと…宮地くん?」

裸眼だと30センチ以上離れたものは全部ぼやけて見える世界にいるは辛うじて背格好や声で心配そうに声を掛けてくる相手がクラスメイトの宮地だと判別することができた。 しゃがみこんでと同じくらいの視線の位置まで近付いてくれると漸く申し訳なさそうにする彼の顔が見えた。

「うん、午後も授業あるしちょっと困る…かな。でも、私もボーッとしてたのがいけなかったから、宮地くんの所為じゃないよ」
「そんなわけいかねーだろ。弁償する。あと、午後の授業は俺がノート取るから」
「ありがとう」
「バカ、当然だろ。っていうか、これ片付けねーとな」
「あ、箒とちりとり持ってくるよ」

立ち上がって近くの階段脇にある掃除用具箱の存在を思い出したはそこへ向かおうとするが、宮地に咄嗟に手を掴まれそれを阻まれた。

「いいって、俺がやる。お前…あんま見えてねぇんだろ?」
「あははは…殆どぼやけてるかな…でも、物の形とかは何となく分かるし、慣れてる場所なら大丈夫だよ。声聞けば知ってる人なら分かるしさ」
「でも危ねぇだろ。いいよ、俺がやっとくからお前は先教室帰ってろ」

追い払われるようにして拒まれれば従うしかなく、はありがとねと、もう一度告げて教室へと戻っていった。






午後の授業は思った通り最悪だった。 は偶々前の方の席ではあったが、それでも黒板に書かれる文字は全く読めなかった。 ついでに先生の顔もよく見えなくて、のっぺらぼうにでも習っているような妙な感覚を覚えた。 真っ白なノートのままでいるを不思議に思った先生にはなんとか事情を話してその日の授業は見逃してもらった。 一応、教科書は読めるし、先生の話も聞こえるからノートを取れないこと以外は支障なく授業自体の内容は問題なく受けることができた。 そして、授業が終わると宮地から午後の授業分のノートを渡された。 意外と言ったら怒られてしまうかもしれないが、几帳面に揃った文字はパッと開いただけで見やすくまとめられているとすぐに分かって、は顔を綻ばせた。

「ホラ、5限と6限のノート。字が汚くて読めねぇってのは受付ねぇからな」
「宮地くん、本当にありがとう」
「気にすんな。元はといえば俺の所為だからな。っていうか、帰りどうすんだ?」

あ…と言葉に詰まったを見て、宮地は小さく溜息を吐いた。 どうせ深く考えてなかったんだろうということはすぐにバレてしまう。 確かに毎日行き来している通学路だから知っている道だし、気をつけて歩けばそう問題はないはずだが、段差などが殆ど分からないのと、はっきり見えない世界はやっぱり何かと不安がつきまとう。

「…送る」
「えっ!悪いよ」
「つーか、新しいメガネないと不便だろ?今日もし時間あるなら帰りに作りに行くか?」
「え、えっと…家に帰れば予備があるからそんなすぐには新しいのなくて大丈夫。っていうか、本当に弁償とか考えなくていいからね?帰りも多分平気だし…」
「いいから…送らせろ…」

ぶっきらぼうな物言いをする宮地だったが、実は優しい。 クラスメイトでも大して親しく話した事があるわけではなかったが、必要以上に気負わせてしまっているようではなんとも申し訳なくなってきた。 でも、頑として折れそうにない宮地の様子に結局押し負けてしまい、その日は送って貰うことになった。 いつも通り友達と一緒に帰ろうかと思ったけど、事情を知ってる友達は皆口を揃えて宮地に送って貰えとさっさと教室を追い出されてしまった。 教室を出てからが追い掛けるのは2、3歩前を歩く宮地の明るい茶色…まるではちみつのような色をした宮地の髪だった。 時折立ち止まってはがちゃんと付いてきているかを伺うように振り向いて、また歩き出す。

、大丈夫か?」
「うん、平気」

階段も手すりに捕まって降りれば慣れた段差はそんなに怖いものでもなかった。 順調に昇降口まで辿り着き、校門を出てからが本題だ。 いつも見ている景色がまるで別物のように全てが曖昧にぼやけている世界では距離感も覚束ない。 はなるべく車道から離れた方を歩いたが、それでも注意深く歩く所為でいつもよりもずっと歩くのが遅くなってしまい、ただでさえ脚のコンパスに差のある宮地にはぐんぐん離されてしまった。 遠くに見えるはちみつ色が更にぼやけていくことがこんなにも不安に思うなんては思いもしなかった。 慌てて追い掛けようと小走りになった途端、気付けなかった僅かな段差に躓き、転びそうになった。

「───おいっ、大丈夫か?」
「…宮地くん……」

バランスを崩したに気付いた宮地があっと言う間に駆け寄ってきた。 離れてもちゃんと付いてきているから大丈夫だと思っていようだが、彼にとってもの危うさは予想を超えていたようだ。 大丈夫だよと言って笑って見せたが、宮地は納得していない様子で、黙ってのカバンを奪うと自分のと一緒に肩に掛け、もう一方の手を「ん…」とぶっきらぼうにに差し出した。 は目をパチクリさせ高い位置にある宮地の顔の方を見上げた。

「ボーッとしてんなよ、手だよ手!危ねぇから掴んでろ」
「でも……」
「…チッ…俺の見えてねぇ所で転ばれたりとか嫌なんだよ。何の為に一緒にいるかわかんねーだろうが」
「あ、でもほらカバンは持てるから…ね?…って───!?」
「めんどくせー!つべこべ言うなっ!……ホラ、行くぞっ!」

咄嗟に手を取られたは引っ張られるまま歩き出した。 宮地の大きな手はしっかりとの手を掴んで離さない。 伝わってくる体温が異様に熱いのは宮地なのかなのかもう分からないが、不思議と嫌ではなかった。 ムキになって歩く宮地に少し早歩きで付いて歩くは、急に黙りこくってしまった宮地が照れているのかもしれないと思うとなんだかおかしくなった。

「…なに笑ってんだよ……」
「うんん、なんでもない。ねぇ宮地くん、もう少しゆっくり歩いて貰ってもいい?」
「ん?あぁ…悪い」

歩くスピードを落とした宮地と徐々に歩調が合っていく。 前後で引っ張られるだけだったは宮地とと隣り合って歩く位置に少しだけ気恥ずかしくなった。 手を繋いでこんな風に歩くのはまるで『恋人』みたいかも……と。
チラリと見上げた先に輝くようなはちみつ色。
の視線に気付いた彼は「なんだよ」と少し怪訝そうな声を降らせてくる。 はもう一度「なんでもないよ」と言ってフフッと微笑った。

「そういやさ、新しいメガネだけど、今日じゃなくてもいいからヤッパ弁償させろよ」
「気にしなくていいのに…」
「いや、ムリだから」
「…じゃあ…宮地くんが選んでくれる?」
「なっ!なんでそーなんだよ、が使うんだからお前の好きなの選べばいいだろ?」
「うん、だから…宮地くんが選んだのがいいの。ダメ?」

ぼやけた世界ではちみつ色の中にある宮地の顔が百面相しているであろう姿にはクスクスと笑を零した。 「からかってるだけだろ」なんて疑う宮地にそんな事ないと懸命に説得して、後日一緒に買いに行く約束まではこぎ着けた。 家までの道のりで、引退した部活や進路のこと、実は宮地が全くの反対方向だったことも色々話していたらあっという間に着いてしまった。

「ごめんね、こんな遠くまで…」
「謝んなっつたろ」
「…うん、そうだね。ありがとう…」

門の前に着いても何となく離れがたくて、繋いだままの手をどのタイミングで放すべきか悩んでいると、握られた手にキュッと力が篭められた。 は徐に宮地を見上げると少し屈んだ彼の顔が近付いてきた。

「…なぁ、これくらいなら俺の顔見えんのか?」
「えっ!?…あ…まだ少しぼやけてる…かな…」
「じゃあ、こんくらい?」
「うん…流石にこれだけ近ければ見える…けど、恥ずかしいよ…」

20センチほどの近さまで迫った宮地の顔なら確かにちゃんとはっきり見えた。 でも、それ以上に息がかかりそうな程の距離というのは心臓に悪いとは初めて知った。

「ふーん…この距離か……分かった」
「宮地くん?」
「ああ、気にすんな。今後の参考ってやつだから…今日は本当に悪かったな。じゃあな…」

そう言って手を振りながらそそくさと帰っていく宮地の後ろ姿をは呆然と見送った。
妙に早鐘を打つ鼓動が煩くて、ぼんやりとした世界に浮かぶ彼のはちみつ色がさっきまでの光景をの脳内で何度も蘇らせた。 取り敢えず家に入るのはこの顔の火照りが冷めてからにしようと、少しの間家の塀に凭れてやり過ごしたのだった。



* E N D *


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