■一線を残した二人の夜
電気のない本丸で過ごす一日の終わりは、現世を生きるにはあっという間の出来事だ。
陽が沈み、夕餉を終える頃にはもう辺りは闇の中。そこから先は深く、そして静かに更けていくだけ。
蝋燭の火を頼りに机仕事に向かってみるものの、決まって誰かしらがそれを諫め、早く休めと口酸っぱく囀るのだ。 もしかしたら当番制にでもなっているのではと疑った事もあるが、そうでもないらしい。 そう言われてみれば確かにみんな気遣ってくれてはいるが、規則性は感じられなかった。 特に一番顔を見せる彼は殆ど日課のようなものになっているのかもしれないとさえ感じる。

「失礼します。主、まだ起きてらっしゃるのですか?」

凛と通る声にが振り向くと、そこには眉間に皺を寄せた渋い顔の長谷部が立っていた。
その顔だけでお小言が聞こえてきそうな顔を見ると思わず苦笑してしまう。

「ごめん、もう寝るから」
「そう言って床の準備もされていないじゃないですか」
「今からしようと思ってたの」
「またそうやって子供みたいな言い訳を…」
「大丈夫!ちゃんと休むから、ね?」

心配する長谷部を宥めるようににこりと微笑んだつもりが、彼から返ってきたのは深い溜息だった。
そして、ゆっくりとに歩み寄り、傍らに膝を付くと長谷部の両腕にふわりと抱き締められた。

「まったく、貴女という人は…」
「…長谷部…?」
「本当にどうしようもないですね…」

戸惑うが身を固くするのを他所に長谷部は抱き締める力を強めた。
の身体は簡単に長谷部の胸元に収まってしまう。
トクトクと耳をくすぐる心音がどことなく心地よく聞こえた。

「ごめんなさい…」
「謝るくらいならもう少しご自愛されてはどうなんです?」
「うん…でも、やれるだけのことはやっておきたいの。私が此処に居られる時間は限られているから、後悔だけはしたくない」
「時間ならまだあります。俺が主の一振りである以上、主の不安は全て切り捨ててみせます。だから…だからどうか、別れる日を思いながらご自分を追いつめることだけはしないでください」
「うん、そうだね…ありがとう、長谷部」
「本当に分かっているんですか?」

訝しげにの顔を覗き込む長谷部の前髪が、の額をさらりと撫でた。
間近で見るとより際立って見える長谷部の整った顔は妙な迫力を持っている。特に無駄に強い目力には気圧されてしまう。 それでなくてももういい加減心臓が煩くてかなわないというのに。 離れたいのに離れ難い。にとって長谷部は本当に厄介な存在になっていた。
いつかは離れなければならないから、そうと分かっているから近付かないようにしているというのに、彼の方からどんどん距離を詰めてくるのだから敵わない。 拒めば済むことなのかもしれないが、それもできない。 そこまでの意思は強固ではないのだ。
こうして触れ合ってしまえば突き放さなければというよりも彼から伝わる温もりに嬉しさの方が増してしまう。






どうしたって報われないのに……──────






キュッと胸に締め付けるような痛みが走る。
別れる日を想わない日はない。だからこそとも、それならいっそとも想いを巡らせない日は一日とてない。 日を重ねればそれだけ想いは募っていく。もう気持ちを誤魔化すこともできないくらいに。 最後の砦があるとすれば、それはお互いが何も核心に迫ることを口にしないということ。
も、そして長谷部ももしかしたら『言霊』を恐れているのかもしれない。
残されたほんの少しの逃げ道に縋っているだけなのかもしれない。
それはとても不安定に見えて、今の二人が関係を保つにはギリギリの均衡を維持する鍵になっていた。




見つめられる瞳の中に映る自分の姿には緊張の中でどこか安堵していた。
長谷部の視界を今この時だけは自分が独占していることが嬉しくてたまらない。 その反面、心配そうな彼の表情を見れば少しだけ申し訳なくも感じた。心配なんて掛けたくないのに、長谷部相手になるとどうにも上手くいかないのだ。
端正な顔の中に眉間の皺だけが出逢った頃より少し深くなったように感じた。 そっと指先でなぞると、長谷部は驚くままに身じろいだが、すぐにの好きなようにさせた。

「そんなに俺の眉間が気になるんですか?」
「難しい顔ばっかりするから…皺、取れなくなっちゃうよ?」
「そう思うなら大人しく言うこと聞いてください」
「はい、はい」

空返事をすればまた呆れた溜息が零れ聞こえた。 そんなことにも構わず、はゆっくりと長谷部の輪郭をなぞっていった。 頬を伝い、首筋に触れると脈打つ鼓動が伝わってくる。 そして、半ば衝動的には長谷部の首に両の腕を絡めるようにしてゆっくりと抱き締めた。

「主…もうお休みになってください」
「うん…でも、もう少しだけ…」
「本当に仕方のない人ですね…」

いうほどに長谷部が怒っていないことはも分かっていた。何よりも、優しくの背を撫でてくれる大きな手がそれを証明していた。
切なくて、もどかしくて……
泣きたくなるくらいに愛しいひと時。
このまま時が止まればいいと長谷部と過ごす時間に何度思ったか、そして、これから先何度思うのか知れない。
長谷部の肩口に頬を摺り寄せふと見ると、部屋の窓から月が輝いているのが見えた。 晴れた夜空に輝く月の光は眩いくらいに明るく闇夜を照らしている。

「…ねぇ、長谷部…」
「はい?」
「あの…ね、窓から月が見えるの」

の意図が見えないのか、長谷部はそれがどうかしたんですか?とあやすようにの髪をそっと撫でた。

「月のことどう思う?」
「…主、何を仰りたいのか俺に分かるように言ってください」

いよいよ意味が分からないと困ったように告げる長谷部に構うことなく「いいから答えて」とは捲し立てた。 一つ零した溜息のあと、長谷部は意味も分からないまま主の問いに答えた。

「美しい…と、そう思いますよ。一番見応えがあるのはやはり望月でしょうが、俺は欠けた月も好きです。今夜のようによく晴れた空に輝く月は尚のこと美しく見えますしね」
「…そう。うん、そうだね。私もそう思うよ」



I LOVE YOUを『月が綺麗ですね』と訳した文豪のエピソードがふとの脳裏を過ったのはほんの偶然。
だからと言ってどうするわけでもないし、誘導尋問のような真似をして答えさせただけのやり取りに何の意味もないのだけれど、にとっては充分だった。
単なる自己満足かもしれないし、これはちょっと過ぎた願望とも思えたが、もし、が現世に帰るその時が来ても、月を見る度に今夜のことを長谷部が思い出してくれたならどんなに嬉しいか…と。
彼の中に少しでも自分を刻み込めたならいいと、そう思った。
は長谷部を抱き締める腕に少しだけ力を込めていた。 やっぱり意味が分からない長谷部は煮え切らない顔をしつつも、満足げなの様子を見ればまあいいかと少し気持ちも治まった。

「それで、なんなんですか?この謎かけは」
「なんでもない」
「またしょうもない嘘を…」
「嘘じゃないけど…秘密」
「本当は何もないとかじゃないですよね?」
「さあ…どうかな。いいの、長谷部は知らなくて。だから、秘密」

どこか楽し気なを見ればそれも悪くないと、肩口でコロコロと微笑う声に耳を澄ませた。

「さあ、本当に眠れなくなってしまいますよ?」
「分かってる…あとちょっとだけ…お願い…」

そんなやり取りを今夜はあと何度繰り返すのだろうかと思いを馳せる反面、長谷部もも『今だけは』という思いに駆られて自分に甘くなってしまう。 互いに分け合う温もりを確かめるように抱き締め合いう。

「主は本当に仕方のない人ですね…」

長谷部の優しい声音にはそっと目を閉じた。



* E N D *


■戻る