■月見酒



何処からともなく聴こえてくる歌声には引き寄せられるようにしてその場に辿り着いた。 呼ばれているような錯覚すら覚えた聲の主はを目で捉えると妖艶にその瞳で嗤って見せた。

「おやおや、子供は寝る時間だよ」
「もう…私は子供じゃありません」
「アタシに言わせりゃ酒もろくに飲めないなんざまだまだ子供の証しさ」

クスクスと微笑いながらも手招きする次郎太刀は既にほろ酔いの様子で、ご機嫌なまま手にした杯をクイッと飲み干した。 空になった傍からすかさず新たな酒がトクトクと小粋な音を立てて注がれる。 次郎太刀は嬉しそうに波波と注いだ杯に唇を運んだ。

「で、なんでこんな所に来たんだい?」
「ごめんなさい、次郎さんの邪魔をするつもりはなかったんですが、その…歌が聴こえてきて…」
「あぁ~、別に謝る事はないよ。なんだ、呼び水はアタシか。…なら、それも悪くないね」

何のことだろうかと首を傾げると、次郎太刀は更に笑を深くして「いいの、いいの、気にしなぁ~い」とはぐらかしてはまた酒をあおった。 ごくりと喉を鳴らしながら幸せそうに酒を飲む次郎太刀にはこれ以上邪魔できないと言って立ち去ろうとしたが、歩き出す手前で次郎太刀に手首を掴まれ足を止めた。

「誰が邪魔だなんて言ったのさ。見てみな、こんなに見事なお月さんの綺麗な夜だ。月に酒とくれば後は花…体よく揃ったってのに逃げるなんて野暮だよ」
「一緒にいても良いんですか?」
「そう言ってるだろ。さぁ、隣においで可愛いお花さん」

引き寄せられるままに次郎太刀の隣に腰を下ろすと、僅かに香る酒と次郎太刀の焚き籠めた香の香りがの鼻腔を擽る。 甘く、それでいて上品な次郎太刀特有の香りに包まれていると妙にふわふわとした感覚が湧き上がる。

「ちょいとちゃん、いくらアタシが綺麗だからってそんなに見つめられたら穴が開いちまうよ」
「すみません…」
「はは、冗談だよ。謝ってばかりいないで、いい夜なんだからも楽しみな」
「はい、そうですね」
「んじゃ飲むかい?」
「い、いえ、私は…」

差し出された杯をはやんわりと断った。 酒が全く飲めないわけではないのだか、強いものは得意ではない。 前に少ししか飲まなかった翌日も二日酔いになってえらい目にあっているから次郎には悪いが遠慮したいところだった。

「そうかい?そりゃ残念。まぁ~無理に飲ませる趣味は無いからね」
「次郎さんは本当にお酒好きですね」
「うん、そうだね。アンタには合わないかもしれないけど、こいつがあればアタシは無敵だよ。例えば…そうだ、月にだって勝てるからね」

そう言って夜空に輝く月に杯を向けた次郎太刀は自信満々といった風に口角に笑を浮かべた。 いくらなんでもそれは言い過ぎ。第一勝敗の付けようもないだろうとは苦笑したが、次郎太刀は更に笑みを深くした。

「その顔、信じてないでしょう?」
「い、いえ、そんな事は…───」
「───いいの、いいの。論より証拠…百聞は一見に如かずってね。まぁ…見てな」

残っていた酒を一気に飲み干すと、そこへ何度目かの新しい酒が注がれた。 漆の艶が月明かりに照らされそこへ注がれたいっぱいの酒がゆらゆらと杯の表面で揺れていた。 見れば、そこには夜空の月が映り混んでいて、小さな月が水面にぽうと浮かんでいるようだった。 次郎太刀は瞳を細めニヤリと嗤うと映った月ごと一気に飲み下した。 溢れて口許を伝う酒の雫もペロリと舐め取り、誇らしげに微笑む次郎太刀にはめをパチクリさせた。

「クスッ、なに面食らった顔してんのさ…言ったろ?月にも勝てるって。なあ、。次郎さんは最強だろ?」

酔いが回ってすっかりできあがった赤らんだ顔でも次郎はやっぱり美しいままで、が「はい」と答えて微笑むと、継ぎ足したばかりの酒をまたもや一気に呷った次郎は杯を横に置き、ずいとに顔を近づけた。
後ずさろうと身体を引こうとした時にはもういつの間にか腰に回された次郎の手がそれを許さず、せるような酒の香りがを覆った。 気まずさに視線を泳がせているとそれすらももう一方の手が頬を撫でながらやんわりと窘める。

「怖い?」
「そうじゃないですけど…恥ずかしいです」
「そう?でも、アンタ主なんだからさ、月より強い次郎さんに褒美の一つも頂戴よ」
「あ、あの…じゃあ明日にでも何か…───」
「───今がいい。…しょうがないからこれで我慢してあげるよ」



──────っ!?



唇を覆う柔らかな感触が次郎からの口付けだと理解するまでほんの刹那の時間を要した。 口から広がる酒の甘美な香りが鼻から抜けていくのを感じ、は眩暈にも似た感覚に躰が粟立った。 唇を離した次郎太刀はペロリと舌を出して「ご馳走様」と耳許に囁くと真っ赤になって慌てふためくをケタケタと微笑った。

「何するんですかっ!もぅ……」
「いいじゃないの、減るもんじゃなし」
「そういう問題じゃないです…」
「まぁ、まぁ、機嫌直しなって。一緒に呑むのは無理でも雰囲気ぐらい付き合いなって話」
「え…?」
「折角の月見酒だ。香りくらいなら一緒に楽しめるってもんだろ?」

次郎太刀は妖艶に微笑むとまた杯へと手を伸ばし、注いだ酒を乾杯をするようにの方へと向けた。 一緒にと言われてハッとする。 まだの口内にはさっきの残り香がほんのりと甘く残っていて、思い返すだけで頬が熱くなっていった。

「だからって…キスすることないじゃないですか…」
「きす…?ああ、ちょっと触って口吸っただけじゃないか」
「ちょっとじゃないです」
「アタシは花を愛でただけだよ。それにアタシの本気はあんなもんじゃすまさないからね…」

意味深に細められた次郎の瞳と、不敵に釣り上がる口許には背筋がぞくりとして思わず顔が引きつった。
どう頑張ったって次郎太刀に敵いそうもないのは分かっている。
打ち負かそうなんて考えも毛頭ない。
けれど、いいようにからかわれているだけな自分も釈然としなくて、はキュッと拳を握った。

「…じゃあ、次郎さんの本気…教えてください」

振り絞って出した言葉は少し震えてしまったけれど、次郎を驚かせるには充分だったようで、酒を運ぶ手がぴたりと止まった。
してやったり。
フフッと笑を零したに次郎太刀は大きく息を吐くと前髪をクシャりとかき上げ鋭い視線でを差した。

「そうだね。夜は長い。月は飲み干してしまったし…今度は本気で花を愛でよう」
「次郎さん…」
「言っとくけど、が煽ったんだ。今更後悔しても無駄だからね?」
「後悔なんてしませんよ。私は次郎さんの歌に誘われて来たんですから」
「そうだったね。じゃあ花じゃなくて蝶だったか…まぁいいさ。どちらにしろ愛でることに変わりはないからね。さぁ、おいで…」






──────月見酒を愉しもう──────






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